2010年8月15日日曜日

終戦記念日に思い出すこと

今年は何時になく猛暑の日が続いて体がついてゆけない感じ。 お陰で写真を撮る元気もないのでこのPhoto日誌からすっかり遠ざかっている。

それでも終戦記念日が近づいてTVで毎日のように昔の戦争体験談や戦争の記録が放映されることが多くなると、未だ国民学校に上がるか上がらない幼い目に焼き付いた様々な当時のことを思い出して暗い気持ちにさせられる。

「悠然と飛ぶB-29の編隊」
あれは国民学校の1年生になったばかりの頃ではなかっただろうか、日々艦載機の機銃掃射が激しくなって、通学途上の生徒が犠牲になり出して学校には行かず、近くの農家の馬小屋が分教場だった頃の事だったと思う。 
空襲警報のサイレンが鳴って、真っ暗な夜空に幾筋もの探照灯の光が照らすスポットライトの中をウォーンウォーンと鈍いエンジン音を轟かせて悠然と飛ぶ銀色のB-29爆撃機の編隊を、「トンボが飛んでるみたい!」と防空壕の前の土嚢の上に登って眺めた記憶が今でも鮮明に蘇る。 成層圏を飛ぶB-29の姿が見えても高射砲の発射音がしないのを当時不思議に思っていたのだ。 当時の高射砲は成層圏までとどかなかったのだ・・と知ったのは物心ついてからだった。

「博多の町が燃えた!」
これも恐らく終戦の年、国民学校一年生の記憶だと思うが、 例によって空襲警報のサイレンが鳴って真っ暗な夜空に幾筋もの探照灯の光が交錯する中現れたB-29爆撃機の編隊がバラバラと焼夷弾を落とし始め、博多の町が見る間に真っ赤な炎に包まれていったのだ。
暗闇を真っ赤に染める炎と花火のように炸裂する焼夷弾の閃光と炸裂音、家の台所の窓から固唾を飲んで眺めていたこの情景は未だに瞼に焼き付いている。
何時だったか、「戦争と平和」の映画の「モスクワが燃える!」という1シーンを見ていて、ふと博多の町が燃えた時のことを思い出し感傷に耽ったことを思い出した。

「艦載機、グラマンの襲撃!」
これも終戦間際の事だったと思うのだが、 例によって空襲警報のサイレンが鳴ったのもつかの間、ズシーン、ズシーンと家を震わせる爆弾の炸裂音が近づいて来たのだ! 何時でも避難できるよう身支度を整えていた母に手を引かれ、先ずは庭に掘った防空壕に避難はしたものの爆弾の音はますます近くなって子供心にもその恐怖心は最高潮、乳飲み子を背にした母に手を引かれて100m程先の山の防空壕へ決死の脱出。
その途中、突如正面の山の上から超低空で現れたグラマン戦闘機の編隊に遭遇してしまう。 とっさにイモ畑に伏せた母に促せれて自分も伏せながらも飛行機が気になって見上げると、機体を離れて飛んでゆく黒い爆弾と、操縦席の風防の中に操縦士の顔がはっきり見えたのだ! 
この辺りまでは子供心にも余程強烈な印象だったのか記憶が生々しいが、「あの爆弾はなぜ下に落ちてこなかったのか?」と子供の頃はずーっと不思議でならなかった。
物心着いてから「何秒か後に爆弾の炸裂する轟音がして爆風で体が浮き上がり、生きた心地がしなかった・・と母から何度も聞かされた。

「特攻隊」 
米軍の攻撃目標だった板付飛行場の直ぐ前ということもあり爆撃や機銃掃射が絶えなかったが、子供心にとって憧れのような存在だったのが「特攻隊員」。
花や写真や日の丸の旗を飾った家の前で、頭に日の丸の鉢巻、襟元に白いネッカーチーフを巻いて敬礼をして家族や村人に見送られ、颯爽と軍の車で去ってゆく「かっこいい特攻隊員」を近所で何度か目にした記憶がある。
しばらくすると目の前の飛行場を飛び立った特攻機は自分の家の上空で翼を左右に振りながら何回か旋回し、やがて何処かへ飛んで行った。 それが又子供心には「かっこいい!」と憧れの的だった。
ところが物心ついてその悲惨さとご家族の悲しみを知ってからは、思い出す度に胸が締め付けられるようになっていた。

戦争体験者が少なくなって戦争の怖さ虚しさ愚かさを伝えることが次第に難しくなっている。なんとか多くの若い人達に分かってもらえれば有り難いのだが・・・。