2009年2月13日金曜日

成田市の「電車路」

年初詣に出かける隣町の成田山、ここに向う通りの一つに「電車路」と呼ばれる路がある。 途中レンガ造りのトンネルが二箇所あり、何となくその雰囲気が感じられるのだが、その電車はいつごろ何処をどう走っていたのか長年気になっていた。
先日国土地理院から入手した昭和3年発行の2万5千分の1の「成田」の古地図を見てみると、なるほど成田駅から成田山の山門前と、宗吾霊堂のある宗吾へ向う「成宗電気軌道」が載っていたのだ! 当時の町の様子は現在とは全く違うが、何処を走っていたのかおおよその見当がつく。 
ネットで調べたら、この電車は明治43年(1910)12月に成田駅と山門間が、翌明治44年(1911)1月に成田駅と宗吾間が開通、大正15年(1926)12月に成田まで延長された京成電鉄とほぼ並行していることもあり、昭和19年(1944)、戦時下にあっては不要不急路線と判断されて廃線になったという。
この古地図を見ていたら、現在の成田空港線と同じような所を通る「多古鉄道」なる鉄道が、同じ成田駅から出ていることが分かった。 そういえば昔芝山町や多古町にも鉄道が来ていたという話を聞いた記憶があるからもしやこれがそうかも!・・・と急に興味が湧いてきてネットで調べた所、県営鉄道の「多古線」と「八街線」というのがあったことが判明。 

こちらは明治44年(1911)7月に成田と三里塚、同10月には三里塚と多古間が開通したとある。 そして大正3年(1914)5月には三里塚と八街間の八街線が開通しているのだ。 線路の幅も狭く軽便鉄道のようにスピードも遅かったと出ていたが、それでもこの路線は昭和初期まで続いたが、線路や車両が戦時物資の供出の対象になって昭和19年(1944)1月に全線休止、昭和21年10月に廃線になったのだという。

この地図の左の端の印旛沼を見ると、そこには現在の国道464号線は勿論、甚兵衛大橋も未だ載っておらず、そこには江戸時代さながらの「甚兵衛渡し」の渡し舟が通っており、 その南にも2箇所から渡し舟が通っていたことが分かるのだ。 今ではこの辺りを通る成田高速鉄道の高架橋の工事が急ピッチで進んで風景が一変しているが、 当時の湖岸はどんなにのどかな風景だったのだろう?・・・と想像するだけでも楽しくなってくる。