国土地理院で発行したわが町の2万五千分の一の古い地形図が手に入った。 お陰でここ数日この地図を眺めて昔のこの辺りの様子を偲んでいる。話には聞いていたが思いのほか想像の範囲を超えていたのが印旛沼の様子だった。
この地図が大正10年当時のわが町近くの印旛沼、当時は対岸まで1km近い幅で北から西に広がる細長い沼だったのだ。 当時の近隣の村の名前も珍しいし、成田線は既に開通しているが京成電車はまだ出来ていない。
この昭和2年発行の地図を見ても印旛沼の様子は大正時代と変わらない。 変わったのは大正の末に開通した京成電車が載っていることと、話には聞いていたが国鉄の酒々井駅と京成電車の間を貨物専用の軌道が通っていることだ。 今は線路の幅が違うが当時はどうだったのか不思議である。
自分が学生だった頃の昭和36年の地図を見ると、 印旛沼の干拓がだいぶ進んで対岸までの距離が幾分縮まっていることが分かる。 よく見ると渡し舟のマークがある! これも話に聞いてはいたが、こうして見るとなるほど!・・と現実味が湧いてきた。ふと、あの貨物軌道がこの時代には無くなっていることに気がついた。 戦時中の物資の移動に使われていたのだろうか・・・。
昭和47年当時の地図を見ると、印旛沼はすっかり干拓されていた。 残ったのは現在と変わらぬ水路のみだ。印旛沼が北と西に分かれて水位調整の為の水路が完成したのが昭和40年頃という。江戸時代に3度も失敗した治水と干拓の事業が昭和の後半にようやく完成したというのだから想像を絶する大事業だったことが偲ばれる。
そして昭和59年、我が家がこの地に移り住んできた頃の地図を見ると、あの干拓田の中の水路に「中央排水路」と名が載っていた。 通常は「中央水路」と呼ばれているこの水路、何時のころからかヘラブナ釣りのメッカになっている。以前は山地に囲まれていた酒々井駅周辺に注目してみると、この時期開発されて新興住宅街化された様子が見て取れる。