2008年7月19日土曜日

門前の“爺”

爺のお袋が俳句を始めたのは昭和45年ごろだというから、既にかれこれ38年の経歴になる。 長年作り溜めた俳句の句集を作っては・・と勧めても、気恥ずかしがって決して作ろうとは言わないお袋を見て、それならば・・と、我輩がパソコンを使って母の句集を作ってあげることにしたのは5年位前だった。 
だが、 大正生まれの母親が綴る俳句は旧かな使いの言葉が多い上、難しくて爺も読めない漢字はワープロ泣かせ、漢字変換機能では対応出来なくて苦労の連続で完成まで1年以上も掛かってしまった。 
そんな苦労のお陰なのか、作品を一つ一つ記録してゆくうちに、心の中に染み渡って来るような句に感動して手を止めることもしばしば。 全く素人の爺にもかかわらずなんとなく俳句の良さが分かるようになってきたらしい。 
たった五七五しかない短い句にもかかわらず一体この感動は何だろう・・と興味が少しずつ湧いてきた爺が得た結論は、五七五で綴る俳句と言うものは、そのものずばりの“言葉”ではなく、人の心に潜む思いを蘇らせる“詩”でなくてはならないということ。 酔いしれるような状況が詠み込まれた和歌や詩歌とは違い、読者の経験に裏打ちされた感性に訴えかけねばならぬということらしい。
そう悟ってから世の俳句に接してみると、感動出来るほど経験を積んでいない自分が見えてきて、俳句を極めるということはなかなか簡単なことでは無さそうだと分ってくる。 そういえば写真も同じようなことが言えるような気がするなあ・・・と思ふこのごろ。

それはともかく、そんな爺が4月3日 入院中の病棟で生まれて初めて詠んだ句

点滴や 白き窓辺の さくら花





そして先日、7月16日 父命日の墓参りにて詠んだ句

霊園や 寿陵にそよぐ ねこじゃらし

ヤマユリが咲いてた!

毎日ぐったりするような蒸し暑い日が続き、このところすっかり動きが鈍ってしまった。 
こんな調子ではまずいなあ・・と、今日は思い切って何処かへ出かけることにした。何処に行こうかと思い迷った末に思い出したのが房総風土記の丘、 この時期、何が咲いてるかなあ・・と思いながら下総松崎近くに差しかっかった時、
あの大好きな合歓の花が車窓に飛び込んできたのだ! 合歓の花の季節だったとは・・・今日出てきてほんとによかった。




未だハスの花は見えない坂田が池の縁を通って風土記の丘の駐車場へ着くなり早速里山の小径に入る。 緑濃い木立の中の小径は意外に涼しくて心地良い。
 
ハエドクソウは花を付けたろうか・・と思いながら目を凝らし歩いていたらその花は直ぐに見つかった。 やっぱりこの花の季節が始まっていたのだ。







林の中にオカトラノオの花の跡がある。 もう少し早く来ていればこの花の群落に会えたのに、この花のことを思い出すのが遅すぎた。
 今となっては後の祭りだが・・・と思いながら行くと、林の奥に咲くヤブカンゾウのような橙色の花が目に入った。 近くに行ってみるとそれはノカンゾウの花だった。
辺りを見回して驚いた。 なんとヤマユリが咲いていたのだ! もうこの花の季節だったのかと思うと感慨もひとしお、家に閉じ篭ることが多くなってしまったお陰で体の季節感がすっかり失われてしまっていた感じだった。

辺りに咲き乱れるヤマユリを堪能してそこを後にする。 既に茶色く枯れたウツボグサの花の跡の群落がある。
 大好きなこの花も見損なってしまって残念な気持ちになっていたら、今度はなんとアキノタムラソウが花を付けている姿に遭遇。 もうこの花の季節が始まっていたのだ!


今日は久しぶりに里山を歩いたが、情緒不安定な抜け殻のような体になってしまわぬように、もっと積極的に自然の中に飛び込まないといけないなあ・・と反省の一日だった。